九州大学大学院医学研究院 病態制御内科学(Department of Medicine and Bioregulatory Science, Graduate School of Medical Sciences, Kyushu University)の前身である第三内科は大正6年1月に新設されました。第三内科に入局した同門の医師数は1500余名を数え、長い歴史と豊富な人材を要する総合内科学教室のひとつです。
専攻分野としては、内分泌代謝、血液、肝臓、糖尿病、膵臓、消化器を研究しており、関連病院では内科臨床の幅広い分野での専門家が育成され、それぞれ活躍しています。
明治36年 3月 | 京都帝国大学福岡医科大学が設置され、旧県立福岡病院が京都帝国大学福岡医科大学附属病院となる。 |
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大正 6年 1月 |
第三内科新設 初代 小野寺 直助 教授 就任(明治41年九州大学卒) |
大正 8年 4月 | 九州帝国大学医学部附属病院と改称 |
昭和18年 9月 | 第二代 澤田 藤一郎 教授 就任(大正10年九州大学卒) |
昭和33年 7月 | 第三代 桝屋 冨一 教授 就任(昭和10年九州大学卒) |
昭和46年 9月 | 第四代 井林 博 教授 就任(昭和22年東京大学卒) |
昭和63年 1月 | 第五代 名和田 新 教授 就任(昭和41年九州大学卒) |
平成18年 1月 | 第六代 髙栁 涼一 教授 就任(昭和50年九州大学卒) |
脚気患者における白米並びに熟米に関する研究。圧診法に関する研究。アルカロイドの性状及びその臨床的応用。喘息に関する研究。生体内解毒合性機転に関する研究。消化機能とアニオンの作用に関する研究。結核に関する研究。
消化器系の臨床。ビタミンB1に関する研究。鯨の膵臓よりインシュリン抽出に関する研究。戦後マラリアに関する研究。原子爆弾症に関する研究。膵臓によりサークレチンの抽出に関する研究。消化性潰瘍の蒼鉛療法に関する研究。
腎機能検査法の開発と人工腎臓による治療に関する研究。肝機能検査法、特に澤田氏昇汞反応に関する研究。澤田氏昇汞反応及びTCAサイクルの臨床的研究。結核のINH大量療法に関する研究。精神身体医学に関する研究。消化と吸収に関する研究。
血漿蛋白に関する研究。鉄及びポルフィリン代謝に関する研究。肝臓病の病態生理に関する研究。腎性貧血の病因と病態生理に関する研究。腎臓病の病態と治療に関する研究。バリストカルディオグラフィーに関する臨床的研究。鉤虫性貧血の成因に関する研究。胃癌及び腸上皮化生の酸素組織科学的研究。膵臓病の診断法、時にPSテストの開発に関する研究。免疫グロブリンと補体に関する研究。骨髄細胞の染色体変異に関する研究。
ステロイドホルモン異常症に関する研究、老化とホルモンに関する研究、造血幹細胞の培養法による研究、糖尿病性血管障害の成因に関する研究、膵癌の酸素額診断法の開発、消化管ホルモンによる消化管運動調節機構に関する研究、腎疾患の診断と治療に関する研究。
ステロイド受容体の機能解析と異常症に関する研究、内分泌攪乱物質に関する研究、糖尿病性血管障害の成因に関する分子生物学的研究、肝再生に関する研究、自己免疫性膵炎に関する研究、炎症性腸疾患のモデルマウスを用いた研究、造血細胞のプログラム細胞死に関する研究、悪性腫瘍に対する細胞療法の開発。
糖尿病血管障害の成因に関する研究、インクレチンの分泌・作用機構に関する研究、ステロイド受容体の機能解析と異常症に関する研究、赤芽球を中心とした造血機構に関する研究、NASHのメカニズムに関する研究、膵炎重症化機構に関する研究、膵星細胞の活性化機構に関する研究、炎症性腸疾患の発症機序に関する研究。
明治42(1909)年5月24日の勅令第142号をもって従来の内科学2講座が3講座に改められた。大正5(1916)年10月3日内科学第一講座(主任稲田教授)の小野寺直助助手は満3ヶ年の欧州留学を終えて帰国し、同時に内科学第三講座担任教授を命ぜられた。ここに初めて第三内科は主任教授を得て、大正6(1917)年1月18日に開講の運びとなった。したがって平成28年は開講100周年に当る。小野寺教授は満26年7ヶ月の長期にわたり多大の業績を残して昭和18(1943)年5月退官した。小野寺内科28年に入局して直接指導を受けたものは521名、学位取得者は271名に及ぶ。小野寺教授は附属病院長、医学部長を歴任し、九州大学の発展に尽くすとともに幾多の業績を挙げ、日本学士院会員に推挙された。特に昭和9(1935)年4月、日本内科学会より「胃運動描写法の臨床診断的価値に関する研究」に関して恩賜賞を授与された。一方、九大温泉治療学研究所の創設や後に台北帝国大学熱帯医学研究所に発展したマラリア治療実験所の創設にも参画尽力し、昭和18(1943)年5月31日新京特別市第一病院長に転出、翌年10月5日九大名誉教授となった。
昭和18(1943)年9月、澤田藤一郎(小野寺内科助教授から、当時台北帝大内科教授)が第三内科二代目の教授に就任した。澤田内科に入局して直接指導を受けたものは406名に及んでいる。澤田教授は昭和33(1958)年3月定年退官し、九大名誉教授となったが、その間附属病院長、医学部長を歴任し、結核研究施設及び癌研究施設の創設に尽力した。
昭和33(1958)年7月1日に桝屋富一(当時鹿児島大学内科教授)が第三代目の教授に就任した。消化器病、呼吸器病及び腎臓病学などで従来の伝統を延ばすとともに、血液学の研究に着手し、昭和37年(1962)4月、第59回内科学会宿題報告「鉄代謝の臨床」を担当し、更にポルフィリン症の研究へと発展した。特に鈎虫性貧血の原因解明に関する業績に対して昭和36(1961)年、桂田賞を授与された。桝屋教授は精神身体医学研究施設の設立に尽力し、桝屋内科時代の入局者は156名に及ぶが、昭和45(1970)年7月退官した。
昭和46(1971)年9月1日、沖中重雄門下の井林博(当時東京大学第三内科助手講師)が第四代目の教授に就任した。井林教授は、「大らかで爽やかな内科学教室の新生と飛躍を求めて、力強く出発したい」との意気込みで、東京大学の優れた学風を移入し、新たな内科学教室づくりに尽力した。内分泌研究室を新設し、昭和52(1977)年5月には第50回日本内分泌学会会長として福岡市で総会を開催した。井林内科時代の入局者は201名に及ぶが、昭和62(1987)年3月定年退官し、門司労災病院院長として転出、さらに九大名誉教授となった。
昭和63(1988)年1月16日、名和田新(当時九州大学第三内科講師)が第五代目の教授に就任した。名和田教授は分子生物学的手法を大胆に導入し、内分泌代謝領域をはじめとする第三内科における研究を時代に即応したものに変貌させる一方で、担当している広範な内科学の分野に対応した幅広い人材の育成に尽力した。平成15(2003)年4月に第100回日本内科学会会頭として、さらに第26回日本医学会総会の準備委員長として日本内科学会及び日本医学会総会を福岡市で開催し、盛会裡に終えている。名和田内科時代の入局者は、265名に及んでいる。名和田教授は、平成14(2002)年より2年間、九州大学病院長を務め、平成17(2005)年3月に定年退官し、九州大学名誉教授となっている。平成18(2006)年4月より福岡県立大学学長・理事長に就任した。
平成18(2006)年1月、髙栁涼一(当時九州大学大学院医学研究院老年医学教授)が第六代目の教授に就任した。髙栁教授は、生活習慣病を中心とした病態の基礎的解析と治療法の開発に重点を置き、教育面では、診療グループ間のクロスオーバーを推進し、内科学の総合力を体得できる研修システムを構築している。髙栁教授は、平成19(2007)年より3年8ヵ月の間、九州大学医学部長・医学研究院長を務め、平成23(2011)年1月からは、九州大学理事・副学長に就任している。髙栁内科時代の入局者は、211名に及ぶ。平成27年3月に定年退官し九州大学名誉教授となった。(九州大学医学部百年史より改変)